相生の (あいおいの)       後編




「神谷っ! なんだ、その格好はっ!」

今日も屯所に土方の怒声が響く。
相変わらずの事ではあるが、セイが屯所を離れていた間は滅多に聞かれなかった
その声が、隊内に活気が戻ってきた事を周囲に知らせた。

「なんだって・・・着物ですよ?」

何を言い出すのだこの男は、とでも言いたげなセイの言葉に
土方の眉が尚更吊り上った。

「着物、じゃねぇっ! 仮にも女房になった野郎が、何で今更袴なんて
 履いてやがるんだよっ!」

土方の言葉通り、セイの姿は小袖と袴だ。
もちろん隊士時代のような男物ではなく女子仕様に誂えられた、強いて言うなら
武家の女子が薙刀の稽古で身につけるような腰高な物ではあるが。

「似合いませんか? これ・・・」

セイが腕を伸ばし土方に見せつけるように体をくるりと一回転させる。
似合わないどころか二藍の小袖と紺を淡くしたような縹色(はなだいろ)の袴は
初夏に似合いの涼しげな色合いで、初々しい娘の匂やかさを充分に強調している。
むしろ若い隊士達の目の毒とさえ言えるかもしれない。
けれど土方の言いたいのはそんな事ではないのだ。

「そうじゃねぇだろう。稽古をするでもなく、ましてや戦時でもないのに
 そんな格好をする必要がどこにあるんだと言ってるんだ、俺は・・・」

脱力感さえ漂わせる土方の言葉にセイが明るい笑いを零した。

「だって動きやすいじゃないですか。掃除だって洗濯だって体力仕事なんですよ?
 この格好の方が断然仕事が速いんです。“兵は拙速を尊ぶ”ですよ、副長!」

「おめぇは“兵”じゃねぇだろうがっ!!」

再び土方の怒声が響き渡った。



「相変わらずだなぁ、あのふたりは」

少し離れた隊士部屋の廊下に座り込み、土方とセイの掛け合いを見るとも無く
眺めていた総司の元へと、笑いを抑えながら永倉が歩み寄ってきた。

「ええ。本当に気が合いますよねぇ、あの人たちは」

苦笑を浮かべて総司が返す。
そのどこか魂が抜けたような顔をじっと見下ろして永倉が口を開いた。

「おめぇは、どうだい?」

「は?」

突然の言葉に総司が首を傾げた。

「自分の女房が他の男と親しげにしていて、総司は何も感じねぇのか?」

ああ、と永倉の真意を理解して総司が笑った。
同時に両の手の平を胸の高さまで持ち上げ、中に何かを包むようにする。

「どんなに綺麗な蝶でも、こうやって囲い込んでしまったら
 その美しさは見えなくなってしまうんです。
 時によったら握りつぶして殺してしまうかもしれない」

ふっと手の平を開いて何かを空に放り出す仕草を見せた。

「自由に飛び回ってこそ本来の美しさを保てる。そうは思いませんか?」

総司の言外の意を、今度は永倉が汲み取った。
セイの本質を知らない者から見れば噴飯物のじゃじゃ馬ぶりであろうとも、
セイという人間を知っている者達からすればそれはごく自然な事なのだ。
あの娘を箱の中に閉じ込めたなら間違い無く枯れてしまうだろう。
妻となった女子を伸びやかに過ごさせ、大きな心で見守るというこの男は
ある意味大物なのかもしれないと永倉は感心した。
けれど素直にその感想を表には出さず笑い飛ばす。

「相変わらず神谷の事に関しちゃ甘々だな、お前は」

呆れたような言葉と笑いを残して去ってゆく永倉の背中に総司が呟いた。

「そんなんじゃありませんよ・・・」


未だ自分達が真実の夫婦ではない事など誰も知らない。
近藤や井上には神谷を屯所に来させるよりも、さっさと跡継ぎを作る事に
力を向かわせろと言われるくらいだ。
けれど違うのだから。

いずれは離れてしまう愛しい女子を、少しでも自分の視界に入れていたいと、
ただそれだけで屯所での手伝いを勧めたのだ。
気心の知れた仲間達と笑いはしゃぎ、身内のように構いたがる幹部達と
じゃれあっている姿は時に自分の胸を突き刺すけれど、それでも目の前に
その姿があるだけで幸いだと言い聞かせている。
少なくとも隊にいる限りは、沖田の妻であるセイに手出しをする無謀な者など
現れるはずもないのだから。
余りに情けない自分の思考に総司は喉の奥で笑いを零す。


祝言の翌日からセイは言葉通りに寝床を別にするようになった。
そんな場所では何かと物騒だからといくら言っても玄関脇の小部屋に床を延べ、
頑としてそこで休む事をやめようとしない。

「いざという時は、沖田先生の身は私がお守りしますから!」

隊士の頃であれば微笑ましいと感じただろうその言葉が、今の総司には
自分を拒絶する言葉に思えて仕方が無い。
自分の近くにいないため。
兄や師としか感じていないと告げるため。
痛みを感じるだけの言葉なのだ。
夜毎就寝前の挨拶に部屋を訪れる夜着を纏ったセイの姿を目にするたびに、
その腕を掴んで引き寄せたい衝動をどれ程の思いで耐えている事か。

女子になど執着しないと誓ったものを。
強く己に禁じてきた恋情が、今はこれほどに自分を振り回す。
ここまで堕ちた自分が何より可笑しい。
手を伸ばす勇気も無く、かといって突き放す強さも無い。
女々しいどころでは無い自分の情けなさは、嘲笑するしかないだろう。
蹲ったこの心がいつの日にか救われる事はあるのだろうか。

相変わらず続いている土方とセイの言い合いを遠くに聞きながら、
立てた膝を抱え込むように膝頭に額を押し当てた。
無意識に己の耳が拾おうとするセイの声音だけが響く中で。












「神谷さんっ、どういう事ですかっ?」

玄関脇の小部屋で小さな行李に自分の着物を詰めていたセイは、
飛び込んできた総司のあまりの勢いに目を瞬いた。
まだ昼を少し過ぎたくらいだ。
今日は昼からの巡察だったはずで、総司が帰宅するには早すぎる。

「江戸へ戻るって・・・私は何も聞いていませんっ!」

「ああ、その事ですか?」

驚きを押し隠し、クスリと小さくセイが笑った。
それが総司の神経を逆撫でる。

「確かに私達は真実(まこと)の夫婦ではありませんっ!」

その言葉は言った総司にも言われたセイにも、心に冷たい刃の感触を与えた。
けれど総司は言葉を続ける。

「ですが夫婦として暮らしているんですっ! それを勝手に・・・」

投げられた言葉でついた傷を必死に隠し、セイが総司の言葉を遮った。

「沖田先生はお忙しいですし、隠していた訳では無いのです。
 今夜にでもお話ししようと思っておりました。
 江戸へは母の墓参に行くだけなのです」

何でもない事のように告げるセイが、今の総司には腹立たしい。
肌に突き刺さる夏の陽射しの中を全力で走ってきたせいで、額から首筋から
不快な汗が流れ落ちる。
セイが差し出した手拭を無視して、苛立ちを表すように無造作に自分の袖で
それを拭った。
困ったように首を傾げながらセイが言葉を続ける。

「松本法眼が近々上様のお供で江戸に戻られるそうなので、その随行の中に
 紛れ込ませてくださると・・・。このような機会は滅多にありませんし」

そんな事は知っている。その松本自身に話を聞いたのだ。
総司は強く手の平を握り締めた。

「・・・・・・それで・・・松本法眼と共に江戸へ行って、京へはどうやって
 戻ってくるつもりなんですか?」

セイを睨みつけるように総司が言葉を放つ。

「女子の一人旅なんて、できるはずも無い事は知ってますよね?
 どれほどに危険がつきまとうか。そんな事を誰も許しはしません」

総司の言葉にセイの表情が一瞬強張った。
それだけで総司には判ってしまう。
セイは京に戻らぬつもりなのだと。
それが判る程度には、自分はこの娘の近くにいた。

セイの前にあった行李を膝で押しのけるようにして、その肩を強く掴んだ。
もう我慢も遠慮もしている余裕など無かった。
このままでは愛しい娘が自分の元から失われてしまう。
たとえセイが嫌がろうとも、どれほど自分を恨もうとも手放す事など出来ないのだ。
セイにとっての優しい兄であり、信頼する武士であろうとした自分を
捨て去る事を決意した。



「・・・許しませんよ」

掴んでいた肩を強く押し、畳に倒す。
総司の手の平から伝わる熱にセイの身体が本能的に怯え、小さく震えた。

「せんせ、い?」

大きく目を見開いたセイに、総司が苦しげに笑う。

「貴女が私の側にいてくれるなら、たとえ形だけの夫婦であろうと
 耐え続けようと思っていました」

クッと総司の喉の奥から笑いが漏れる。

「でもね・・・離れてしまうというなら・・・遠慮なんてしません。
 たとえ貴女に憎まれても、貴女を傷つけてでも離さないっ!」

言葉と同時に総司はセイの袷を押し開いた。


「や、やだっ、せんせいっ!」

その悲鳴を飲み込むように総司は唇を重ねる。
悲鳴を上げたままに唇の緩んだセイの口内を蹂躙しながら、
切ない思いを噛み締めた。

どれほど愛しくても、どれほど離したくなくても、この娘を閉じ込めておく事など
出来はしないだろう。
想いのままに身体を奪おうと、明日になれば自分の元から消えてしまうかもしれない。
いや、力尽くで自分を好きにした男をこの誇り高い娘が許すはずもない。
間違いなく自分に侮蔑の視線を投げて去ってしまうだろう。

それでも・・・押さえきれないのだ。
たとえ一夜の幻だとしても、夜毎夢見たこの娘の全てを
自分のものとせずにはいられない。
恋うているのだ。
どうしようもなく。

セイの頬を伝い続ける雫を心に刻んで、総司は激情の中に身を投じた。













「ん・・・」

初めての衝撃に意識を手放したセイから一瞬たりとも視線を外す事が
出来ずにいた総司は、小さなその声にピクリと身体を揺らした。
すでに夏の長くなった日も沈み、外はとっぷりと暮れている。
腕の中にこの愛しい者が有る幸いを一瞬でも長く味わいたいと、
起こさぬように、それでも頬に触れる手を離すことのできなかった男は、
そっとそっと白絹の頬を撫でていた手を止める。

「・・・ん・・・」

セイの瞼が数度震え、次の瞬間ゆるりと開いた。




闇の中でとろりと眠そうなセイの瞳が総司を映し出している。
左腕をセイの頭の下に預けたままで総司はセイを覗き込むように
その瞳を見つめた。
これが最後になるかもしれない、心が軋む音が聞こえるようだ。
けれど最後かもしれないなら、少しでも近い距離で愛しい娘の全てを
見ていたかった。
悲壮ともいえる思いで見つめる総司の眼差しの先で、
セイの表情がふわりと緩んだ。

「・・・か、みや・・・さん?」

掠れた声をようやく押し出した総司の頬にそっとセイの細い指先が添えられる。

「せんせい・・・泣きそう・・・」

セイの方が泣きそうな表情を見せる事に、ようやく総司の頭が動き出した。

「怒って・・・ないんですか? 私の事を」

セイの瞳から視線を逸らして総司が問う。

「怒る? どうしてです?」

「だって・・・」

貴女の気持ちを無視して私は貴女を抱いたのだ。
総司の苦しげな呟きにセイが小さく笑った。

「セイは沖田総司様をお慕いしております。
 だから・・・旦那様が望まれる事なら、怒ったりいたしません」

言葉を失った男の代わりに、その空白を埋めるように庭から虫の音が響いてくる。
信じられない物を見るような、そんな心地で総司が目を瞬いた。

「旦那・・・様? だって貴女はいずれ私と離縁したいと・・・」

「はい。だって沖田先生は妻子は荷物にしかならないから不要だと、以前
 仰っておいででしたから。どうしたら足枷にならずに済むのだろうと」


セイはセイなりに考えて寝間を別にし、少しでも総司から妻を持った負担を
軽くさせようと隊士の神谷の顔を強く出そうと努力した。
それでも屯所で顔を合わせる度に総司の表情が強張る事に気づいていた。
実際は自分の妻であるよりも、余程生き生きとしているセイの姿が
総司の胸を傷つけていた為なのだが。

そんな事を露とも知らぬセイは自分の存在そのものが総司を苦しめていると
思い込んだ。
だから松本に強く願って今回の江戸東帰に加えてもらえるようにしたのだ。

けれどすれ違い続けた互いの想いは、総司の一途な激情によって
ようやく結ばれる事となった。


混乱と突然の恐怖の中に溺れかけたセイの耳へと、幾度も囁かれた言葉が
セイの正気を揺り起こした。

(セイ・・・セイ・・・)

繰り返し紡がれる自分の名は、違えようも無い程の恋情に満ちていた。
あの呼ばう声音を聞いて、誰が命令で自分を妻としたなどと思うものか。
切ないほどに自分を求めるあの声が、愛しい男の本心を伝えた。
それはセイにとって喜びを齎す以外の何ものでもなかったのだから。



(足枷に、なりたくない・・・から? 自分は荷物だと、思った?)

総司は頭の中でセイの言葉を反芻した。

「・・・それで、私から離れようと?」

総司が再びセイの頬に手を添えて問いかけた。
こくりと頷く娘が愛しい。

「私が嫌々貴女を妻にしたと思っていたんですか?」

セイの返答を待たずに総司が再び口を開く。

「そんなはずが無いじゃないですか。貴女の命を救った上に、私だけの人にできる。
 どれほど嬉しかった事か・・・」

細い肩に頬を押しつけるように総司が顔を伏せた。
伝える事を恐れていた言葉を今度こそ伝えなくては。

「好き・・・ですよ。貴女の事が」

耳元で囁かれるその言葉にセイの体が震えた。
求めてはいけないと幾度も自分を戒めながらも、欲しくて欲しくて欲しくて
堪らなかった言葉なのだから。

それでも、確かめずにはいられない事があった。

「先生の・・・枷になりませんか?」

「違います」

寸分の間も無く総司が返した。
けれどそれはセイの問いへの答えでは無かった。

「もう貴女の“先生”じゃないですよ、そうでしょう?・・・セイ?」

ちゅっ、と音を立ててセイの首筋に花弁を刻む。
慌てて身体を離そうとするのを許さずに幾つもの痕を刻んでいく。

「ほら、早くしないともっとつけますよ?」

「え、えっと・・・だ、旦那様?」

「嫌です」

ようやく口に出したセイの言葉をにべも無く否定しながら総司は思う。
“旦那様”という呼称はたとえ自分で無くとも、セイの夫という立場に
立つ者であれば誰であれ呼ばれたはずなのだ。
そんな誰にでも許される言葉で呼ばれたくなど無い。

「名で呼んでください。私はそれがいい」

顔を上げ、セイの瞳を見つめる男の眼差しの熱さにセイが飲み込まれてゆく。

「・・・総司様・・・」

「はい、セイ」

蕩けそうに甘い笑みと声音がセイに降りかかる。

「総司様」

再びの呼びかけには熱持つ唇が重ねられ、吐息を通して想いが伝えられた。
















「ねぇ、セイってば!」

セイの膝に頭を預け、次の非番の時に行きたい甘味屋を次々に挙げていた夫が
不満そうに頬を膨らませた。

あの後、耐えに耐えていた(本人談)独占欲をいきなり全開にした男は、
いついかなる時にでもセイの意識が自分に向いていないと不機嫌になる。
そして聞き分けの無い童のように拗ね始め、愚図りだすのだ。

「私の話なんてつまらないんですよね。どうせ私なんて斎藤さんみたいに
 冷静じゃないし、土方さんみたいに賢くないし、山口さんみたいに・・・」

延々と続く総司の言葉を頭の端で分析しながら、どうやら昨日
自分が屯所に行った時に言葉を交わした相手とその内容を、
どこからか聞きつけたようだと察する。
けれどそれは恋女房に近づく男達に対する悋気というより、むしろ子供の独占欲。

はぁ、とセイが溜息を落した。

「沖田先生?」

その一言で総司の身体がピクリと強張る。
何故かこの男は呼称に拘るらしいと気づいたのは想いを通わせた
数日後の事だった。
真実夫婦となった以上、隊でも“神谷”ではなく“セイ”と呼んで貰うべきかと
総司に尋ねたのだ。
元々“神谷”で通そうとしたのは、いずれ総司と離縁する事を前提としていたのだし。

けれどこの男はきっぱりと首を振った。
曰く。
他の男が“セイ”と呼ぶのを聞くなど耐えられない、という事だった。
総司の父や兄の如き近藤土方、セイの兄代わりである斎藤も、
始めこそ“おセイさん”などと呼んでいても、セイの父代わりとも言える
松本法眼が“セイ”と呼ぶように、いずれは呼び捨てにしかねない。

「そんなの、嫌に決まってるじゃないですかっ!!」

拳を振り上げて言い募るその様子に遠い目になったのは、そう昔の話ではない。



「先生は・・・」

「やめてくださいよ」

本気で嫌そうに唇を曲げた男は、居心地の良いはずの膝から起き上がると
背中を向けた。
その背にそっと手の平を当ててセイが囁く。

「総司様は駄々っ子みたいですねぇ」

クスクスと笑いを交えたセイの言葉に尖った声が返ってくる。

「駄々っ子でも何でも、嫌なものは嫌なんですっ!」

童のように言い募るその背中に頬を寄せようとした瞬間。

「あっ! 蹴った!」

セイの言葉に俊速の動きで振り向いた総司が、その腹部に手を当てた。

「ああ、本当だ。今日も元気ですねぇ」

つい今しがたまで拗ねていた男とも思えない満面の笑みでセイを見る。




『命令だから仕方がないんですよ』

そう言っていた男はもういない。
妻子の為に誇りを持って誠に生きる男がここにいる。

それでも時折自分を本気で困らせる夫の頬に、セイは優しく唇を寄せた。
愛しいものを確認するように。



この庭は何だか寂しいから貴女のような花を、と庭の片隅に総司が植えた白梅が
ようやく一輪の花を綻ばせた頃の話。






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